レッスン、対座して僕のギター伴奏に合わせると随分丁寧になってきた。ライブになるとそうはいかない。テンションが上がると雑になる。非常によく判る。緊張したり興奮したり、テンション操作を完璧に行いつつ、いつでも人前では熱の籠もった演奏をするというのはとても難しいことです。「いつでも」それが出来る人など見たことがない。僕なんかは当然、ムラだらけだ。ただ、どれだけ不調な時でも観た人にはそれなりに楽しんでもらいたいからせめて「駄目さ」のレベル、下限を少しでも上げて行きたい、と思って練習している。
今日の人はバイタリティがあり、常日頃から人間関係に於いて苦心を厭わずに動き回るから、ライブの集客も相当なものだと聞く。全くブルースを知らなかった人に「良いな」と思わせることが、加藤さんのいう布教活動(気に入ってます)の肝だ。リスナーを増やして音楽を守って下さい。「村」に閉じこもって身内とはしゃいでいたら、心は安らぐしとても楽しい。僕もそれは知っている。そういう(ヴォネガットの言うところの)”疑似家族”は本当に貴重なものだろう。でもそこで完結すれば音楽は必ず澱んで行く。
レスター・ダベンポートを聴いて、その後マジック・ディックを聴いて、ジミー・リードを聴いていたら落ちた。
僕が白人のブルース(白人がやるブルースはブルース・ロックだ、という声もあるが、それは間違いです)を聴いていつも思うのは、50年代のシカゴブルースの進化した形が今のシカゴブルースだとは一概には言えないということだ。ブルースの命脈は尽きてはいないが、今のシカゴの音だけでは不十分なのだ。50年代の「サウンド」はそれ自体が引き継がれなければならない文化だ。そのサウンドでしか達成できない表現が絶対ある筈で、遺産を掘り起こし、再構築し(混ぜる・捏ねる・または徹底的に模倣して)、新しいものとして提示する流れがもう一つ必要だ。
一部のマニアックで有能、かつ自己犠牲を厭わない白人の労作は「もう一つの流れ」の開拓者の軌跡だ。いわば先輩が書いた参考書として、僕は感心しながらも必要な時はいつでも厳しく批判しようという心構えで常に聴いている。大袈裟な文章になったが、上記のような奇特な白人プレイヤーはそうやって厳しく聴かれたいと願っているはずなのだ。