大野木一彦のJOURNAL・ブルースハープ・ライブ・レッスン情報

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2016年 05月 04日

JOURNAL

加藤さんとの交流戦第2弾はシカゴロック。今日の僕の相棒は明里さんだ。高槻のジャズストがあり、ジャズストの裏版みたいなイベントもあって、春一番も今日だった。昼間そちらに行き、シカゴロックに流れて来る人がたくさんいたら良いなという厚かましい願いがあった。たくさんはいなかったが、何人かは流れて来て下さった。どんなライブでもそうだが、このメンバーでやれる最上のことをやろう、と(多分)今日も全員が思っていただろう。飯を食ったり、店の前で音楽的でない世間話などしながら、そういう気分になって行く。僕の場合いつもそんな感じだ。今日はなかなかどろっとした濃密な演奏になったのではないか。楽しかった。お疲れ様でした、シカゴロック、セッション参加のみなさん、お客様、ありがとうございました。
 ダウンホームという言葉は(特に日本で)ハーピストに対して使われる場合、誉め言葉としての使用がほとんどのように思う。基本的に僕は言われたら嬉しい。ただ、基本的に、と書いたのはそこには留保の思いも少しあるからだ。この言葉には、演者の技術のなさを聴き手が受容して、それも引っくるめて愛でてやろうという、人類愛的なニュアンスも含まれる「場合」がある。ずっとダウンホームと言われ続けてきた加藤さんもブログで必ずしも嬉しいわけではないと書かれていたように思うが、多分僕と似たような感じ方をされているのだろう。僕の嫌いな「味」という言葉に似たニュアンスがちょっとだけ気になるのだ。「味」に関しては使われ方が鬱陶しいというか、どう考えても間違ってないですか、といつも思う。下手な歌を聴いて味があると言う人を見るとのけぞりそうになる。下手なものに味などない。貧乏をテーマに適当に(これが肝要です。安易なのです)フォーク調の歌を歌ってブルースと名乗る人を見た時のような気恥ずかしさを覚えてしまう。ダウンホームの使われ方にもそうした「味」とか「気分はすっかりブルース」の雰囲気が少しある。レスター・ダヴェンポートや、グッド・ロッキン・チャールズはダウンホーム。異論はない。リトル・ウォルター、コットン、ウェルズ、サニーボーイ、キャリー、殆どの黒人プレイヤーはダウンホーム。ブランチも僕はダウンホームだと思う。シュガー・ブルーは違う。でもダウンホームもやれる。白人でいうと、リック・エストリンもマーク・ハメルもキム・ウィルソンもダウンホーム。ロッド・ピアッツァ、ウィリアム・クラークは微妙、でもダウンホームもやれる。ポール・バタフィールドはとっても素晴らしいがダウンホームではない。マーク・フォードもダウンホームではない。ジェイソン・リッチも違う。でもジェイソンはダウンホームもやれそう。こういう分類、判るでしょうか。ざっくりしているようで僕の中では結構厳密です。ダウンホームは僕にとってフォームであり、スタイルの呼び名です。
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by nogioh | 2016-05-04 23:33 | Comments(0)


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