島尾敏雄を読み返している。ある歌手の女性と以前文学の話をした時にこの人の名前を出した。懐かしいなあと言っておられた。魚雷艇学生、ロング・ロング・ア・ゴー、出発は遂に訪れず、死の棘、贋学生…。僕が敬愛する小川国夫とも交流の深かった作家で、一時期夢中になって読んだ。島尾の「島の果て」と夫人でもある島尾ミホの「海辺の生と死」などを基にして映画が作られる、というニュースを見て、ああ、と思って本棚から出して、ここしばらく持ち歩いている。岡崎京子と同じパターンだ。何かを表すためには細密な描写と夢のような異化、どちらが欠けても駄目なのだ、とこの作家を読むと改めて感じる。音楽でも同じことで、ブルース・ハーモニカの本質を掴むには延々とコピーを繰り返すしかないし、同時に自身のアイデンティティをそこに注ぎ込んで、それらを異化して観客に見せないといけない。コンプリートなどない世界であり、金を取っても良いレベルかしら、と自他ともに認める程度に習熟してからも、やれないことはいつまでも出てくる。時代も国籍も、肌の色も違うからどうしようもないが、その先に行かないと新しいものなど絶対に作れない。それで嫌になってやめてしまう人が多いのだろう。嫌になってやめる人は、分かっている、のであって、やる人が減るのは残念だが、もっと楽しまないと、などとほざいてだらだら雑音を垂れ流している輩よりはよほど高尚だ。
自分流に、とか新しいものを作る、とか簡単に言うミュージシャンに碌な奴はいないが、まあそんな連中は非常に多い。あほばっかりだなと思います。ああブルースって最高、とか毎日のようにうっとりしながら誰かに向けて喋ったり書いたりするスノッブども。大変な一つ一つの手順を全部省いて進化、と口にするやつも同レベル。そういうミュージシャンの作るものはブルースでもソウルでもない。もどきですらない。音楽ではないのです。何故ならもどきを具現するのすら凄く大変なものだからだ。したがってそういう連中はミュージシャンではないという事になる。ライトノベルがどれだけうまく書かれていても決して文学にはならないのと同じだ。どんな酷評を受けようと、手間暇かけて、楽をせず、せめて文学の土俵には立たないと残って行かない。いや、残るかもしれないな。でも残って行く価値はないと断じたい。音楽も、観客も奏者も同じくらい楽しむ、という状況は、せめてミュージシャン側の礼儀としての粉骨砕身、それ抜きでは実現しないのではないんでしょうかねえ。