嫌な思いを限界まで味わい、僕の方の不幸を納める容量が小さいのか、それともこちらは十人並で、悪い出来事の方が常人の許容量を上回るスケールだったのか、電車に揺られながらを考えていた。結局判らなかったが、答えは出さないほうがいいのかとも思った。前者だとしたら、いい年した大人が幼稚臭い自己嫌悪に陥る事になるし、後者だと、その出来事のもう一方の当事者(または、漠然とした仕組みめいたもの)への憎悪に囚われて、これもまたいい大人が身動きできぬ苦しみを苦しみ抜く事になるだろう。その苦しみから逃れるためには、どのような形態をとるにせよ暴力の発露は避け難く、そうなれば(つまり比喩的な意味も含めて、血が流れれば)安いカタルシスと完全な破滅しか残されないだろう。悪夢の後のように汗が噴き出し、とりあえず、迷惑を承知で、愚痴めいたメールを一本、親しい人に送り、それからの事は殆ど覚えていない。これも覚えておこう、というそれだけの意味で書き記した。