古びても、取り残されても、たとえ形骸と化して空洞になっても、言葉は腐らなければ言葉だ。新しく息を吹き込める。腐ってしまった言葉はいじりようもなく、溶解して反吐と見まがうばかりの無惨さだ。そのような言葉を「有効」とみなして流布しようとする穢れた精神が、街中の至るところに溢れかえっている。チラシにも、携帯電話で読ませる「小説」にも、居酒屋の献立の横のカレンダーにも。そのような幼稚園児以下の言語能力による腐れ外道精神に触れると僕は軽蔑を押えきれないし、まして我が身に押し付けられた日には激昂して目の前が真っ赤になる。何をしてもおかしくない気分になる。
柴田翔「贈る言葉」を何度目になるか、また読んでいる。物語としての体裁が危うくなったり、首を傾げざるを得ない箇所があっても、この求心力と圧倒的な暗さは瑞々しく、とりあえず絶対に腐敗しない力がある。まずはそれにほっとする。読むと絶対元気がなくなるのに、安堵させられるというのは文学の不思議な効用と呼ぶほかない。