雪のちらつく晩で、体も存分に疲れていたが、寒さに元気が出て、年少の友人と枚方の深夜喫茶(この言葉は生きてますか?)で一時間ばかり話す。小川国夫フリークの数少ない知己の一人で、言葉の力を信じようとする会話に励まされる。また別の友人、こちらは年長の人だが、彼は日本語はもう駄目だと云う。文学では一握りの作家がまだ存命で、その限り僕は彼の論に首肯はしないが、会話レベルの話として日本語などもうない気は確かにする。しかし死んだ言語として力を発揮することもある。実際その年長の人に、力づけられたり、考えこんだりする。人柄の力ではない。言葉だ。人柄も含め、森羅万象、言葉の中にしかない。ところで言語だけでなく、都市も死ぬ。上野千鶴子だったと思うが、京都は死んでいると、いつかの誰かとの対談での発言があった。ああ、と個人的な強い実感で納得したのを思い出す。京都に居ることで諦めねばならない事柄のなんと多いことだろう。まあ京都に限った話ではないな。過密するくらい人が住み着いてメディアも本拠地を置かないと、都市だけは地方ではどうしようもないと思う。