大野木一彦のJOURNAL・ブルースハープ・ライブ・レッスン情報

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2018年 07月 29日

JOURNAL

昔レコードを買うと、何回かターンテーブルに乗せて、ジャケットを眺めながら聴き、その後は手間を省いて(ここがもうレコードマニアとは言えないところなのだが)気軽に聴くために、すぐにカセットテープに録音したものだった。今はCDになってジャケットを部屋に飾ったり、じっとジャケットを眺めながら聴くという行為はしなくなったが、とても気軽に聴ける。もっと手軽そうなダウンロードは今はまだ利用しない。そこまで落ちたくない、という人は周りに結構いる。気持ちは非常によく分かるが、僕には簡単に首肯できないところがある。昔レコードが店頭から消え始めた時、CDを馬鹿にし、CDには手を出さないよ、と言っていた二十歳くらいの自分をよく覚えているからだ。いつか僕もクリック一つで曲をダウンロードして、アイポッドやスマートフォンで音楽を聴くようになるかもしれない、と少しは思っている。近頃はどんな形であれ、音楽を聴いている若い人を電車や町で見かけると、それだけで嬉しくなる。音楽という芸術の価値を理解しない、日常生活で必要としない人が増えた。なくても生きられる、という軽いものでは本来ない。文学も音楽も、もっと「生」に貼りついて時には「死」にすらぴったりと寄り添って、簡単には剥がせないもののはずなのに。そして、文学や音楽にとって代わるだけの力のある芸術はまだ現れていないのに。
 ロッド・スチュアートの「Atlantic Crossing」を最近、寝床に横たわりながら時々夜中に聴いている(レコードもあるが通しで聴けるので就寝用はいつもCD)。マッスルショールズ録音独特の音の凄みを感じるポイントが、今と昔では違っていたりして、面白い。眠気が飛んでしまう。アイズレー・ブラザーズのカバー「This Old Heart Of Mine」を聴くと、この曲を下敷きに作った(のでは、と勝手に想像している)ニック・ロウの名作「Cruel To Be Kind」まで聴きたくなる。長らくニックの音楽とも離れているからだ。ブリティッシュ・ロックに夢中だったのは30年前。太田区民会館でニックが弾き語ったこの曲を思い出す。キ〇ルをして帰った帰路も思い出す。そうして益々眠れなくなる。

追っかけるのはやめた 無鉄砲さは醒めた
橋の上に朝が来て 川に光が射して 
OK childいつでも 三つの夢があったもの
寒い日が続いてたな 明日なんてなかったな
目をつむってみるよ 歌ってみてくれよ
最後の夜じゃないか 笑って終わろうじゃないか

これはその頃、同時にテックスメックスにものめり込んでいて、意気込んで作ったポルカ調のメロディに乗せた歌詞。その時こういう気分で書いた訳ではなく、今思えば、いつか自分もこういうことを感じる日が来るのか、と想像して書いたようだ。軽い言葉遣いだが、根こそぎ持っていかれるような喪失の瞬間がテーマになっている。実際かなり後に、そういう種類のどん詰まりを経験した時、僕は果たしてこの歌詞のような感覚を味わったのだろうか。結局、そうではなかった、と思う。昔のことなので、記憶も鮮明ではなくなって来てはいるが、それまで見向きもしなかった歌謡曲とか、そういうものばかりに耳が行ってしまっていたのを何となく覚えている。同様に何の関心も持っていなかったジャズを急に聴き出したのはそのすぐ後だった。不眠の日々の中、本当は飲めない酒を飲み、深夜放送でルパン三世を見て、その後ジャズを聴いたらやっと眠れた。それも覚えている。それだけだ。遠い過去の話なのに、客観的にその周辺の日々の気持ちの動きを的確に表す言葉を僕はいまだに持たない。僕は音楽を続け飯を食い、労働もしていた。よく眠れなかったがともかく生活していた。その時、僕が根こそぎされたのは、言葉であったのかもしれない。

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# by nogioh | 2018-07-29 23:48 | Comments(0)
2018年 07月 01日

JOURNAL

「UWF最後の真実」、「下山事件 最後の証言」、村上春樹が短編を載せていたので「文學界」を購入、読了。文芸誌を買うのは何年振りだろうか。数が売れないからしょうがないが、高いなあと思う。新日本プロレスとUWFインターが交流戦に突入した時、ついに、とは思ったが、僕は実はものすごく楽しんでみていた。安生とか桜庭は厳密にはプロレスラーではなく、それは言い過ぎとしても、アメリカン・プロレスの鍛錬を受けた人ではない。その試合がどういう種類の試合であろうと、そういう選手が、長州のような熟練と絡む試合はとても新鮮だった。一方高田は桜庭とは違う。彼はプロレスをよく知っている。その差がもの凄く出た一級品のプロレスの試合が武藤、高田戦だった。交流戦の後、Uインターが瓦解するであろうことは目に見えていたから切ない気持ち半分、それでも僕は感動して観ていた。当時は、自分の半生の中でもかなり辛い時期だったが、色んなことを思い出しながら「UWF…」を読んだ。下山事件は最近また関心が高まってしまい、ネットで注文した。有名な本だが初めて読んだ。人物も出来事もものすごく入り組んでいるので覚えきれず読了には苦労したが、書く方はもっと大変だったろう。ドキュメンタリーの傑作、そしてとんでもない労作。
 

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# by nogioh | 2018-07-01 23:11 | Comments(0)
2018年 05月 12日

JOURNAL

大江健三郎、古井由吉の対談集「文学の淵を渡る」(新潮文庫)。最近は文学談義など誰ともとんとしなくなった。元々議論が嫌い。断言するやつも嫌い。でも時々は文学の話をする相手がかつては何人かいたのだ。その人たちは勿論存命で、会おうと思えば会える(はず)。ただ、妙に忙しく暮らしているせいで、空いた時間があっても疲弊していて、なかなか人に会いに行けない。
大江健三郎は79年の「同時代ゲーム」から、「燃え上がる緑の木」三部作くらいまで、90年代半ばかな?が最も好きで、それこそ夢中で読んでいた。この辺りも、当時なかなか判ってもらえる人が周りにいなくて、色々歯がゆい思いもした。大江は圧倒的に初期が良い、という人が多かった。僕は逆に初期の作品群は関心がなかった。文体との格闘を続けて、変化し続けた作家なので、80年代以降の語り口が僕にぴったり来る、ということなのだろう。「河馬に噛まれる」などすぐ読み返したいくらい懐かしい。「僕が本当に若かった頃」という短編集の「茱萸の樹の教え・序」も鳥肌が立つほどの読書経験だった。古井氏は昔から名を知っていたが、ちゃんと読んでいなくて、98年に「夜明けの家」を何となく手に取って読み、大変な人がいる、と衝撃を受けた。慌てて過去のものにも遡り、以後ずっと気にしている。老眼になって本を読む行為から離れがちだが、そんなこと言っていては駄目だ、と、この対談を読んで思った。


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# by nogioh | 2018-05-12 23:58 | Comments(0)